
周恩来総理の主催した午餐会で。前列右から父愛新覚羅溥傑、母嵯峨浩、嫮生(左後方)、周恩来、祖母嵯峨尚子、大叔父愛新覚羅載濤、作家の老舎、一公民となったラストエンペラー愛新覚羅溥儀、通訳を務めた王效賢(写真提供福永嫮生氏)
月刊『潮』8月号(7月5日発売・潮出版社)に、『清朝最後の「皇女」がみた日中友好への道筋―100年先のビジョンをもった稀代の政治家周恩来がみた、女性の真の品格とは―』というタイトルで、4ページにわたり著者インタビューが掲載されました。
今回は、これまでのような敗戦、満州国崩壊から、大陸での母浩と娘嫮生さん(次女)の凄惨を極めた一年五か月の流浪を描く「第二章 流転の子」がメインとなるものではなく、その後、日本に帰り着いた母娘が一六年後に周恩来の尽力で父溥傑と再会を果たし、日中の架け橋となる部分、「第三章 再会」中心のインタビューです。 「第三章 再会」は伊豆・天城山で一九歳の慧生(長女)を失った悲しみの中、高度な政治判断で果たされた父と母娘の再会や、日中国交回復へと進むなか、両国の相克に揺れる溥傑一家の愛と再生の姿を詳細に描きました。
また、拙著では日中外交の内実を知る人物に迫り、国交なき時代に周恩来総理のブレーンとして活躍した王效賢女史(現中日友好協会副会長)、経済外交で日中を結んだ周斉女史(元駐日中国大使館一等書記官)が「証言するのは今回で最後」として取材に応じて下さいました。 一九六一年、周恩来は、再会を果たした溥傑一家のために愛新覚羅一族らも交えた午餐会を盛大に開きます。周恩来は永住を決めて帰国した浩と違い、娘の嫮生さんが日本への帰国を望んでおり、溥傑一家の意見の対立が深刻であることを知り、細やかな配慮を見せます。周恩来はおもむろに溥傑と浩に向かって言った。
以下、掲載誌月刊『潮』8月号より抜粋 ―「嫮生さんが帰りたいなら、帰らせてあげればよろしい。無理強いして中国に留めるのはよくありません。若い人はよく変わります。もし後になって中国に来たいと思ったら、いつでもパスポートを申請すればよろしい。(中略)嵯峨家は娘を愛新覚羅家に嫁がせました。愛新覚羅家の娘が日本人と結婚するのも悪くありませんよ」(『流転の子』より) 当時は国交がないため、自由往来の証として嫮生さんに周恩来が渡した「国務院総理周恩来」と書かれた名刺は、今も嫮生さんのもとにある。そして、この言葉に押され、嫮生さんは日本で生きる道を選ぶ。本岡さんは語る。 「政治家として一〇〇年先の視点をもっていたのが周恩来です。日本人を断罪すれば世論や共産党内ではもっと評価されたかもしれない。しかし、“日中両国には二〇〇〇年の歴史があり、関係がおかしくなったのはわずか五〇年あまり、それは過去のことで終わったことである。日本軍国主義は敵として戦ったけれど、日本の人民もまた犠牲者であり、人民を不幸にすることを私たちは絶対に望まない”というのが周恩来の考えです。目先の国益を主張すると本当の意味での国益を損ねることがわかっていた。(中略)ひとりの若い娘に対する細やかな心情に人間としての品格、同時に政治家としての周恩来を見ることができます」― 戦後も歴史の渦に翻弄されながら、市井の人間として生きる姿を貫いた女性の半生をこの誌面で少しでも知って頂けたら幸いです。